「父の樹会」の誕生の原点である、千葉大学教育学部附属養護学校は、昭和48年度にそれまでの小学校と中学校に開設されていた特殊学級が合併され、養護学校として独立し、その翌年に高等部が設置され、現在に至っています。

 個々の卒業生へのアフターケアーについては、当初、在学時の担任の先生が個人的に行っていました。学校に「進路・予後指導委員会」が設けられてから、卒業後3年間、在学時の担任の先生が中心になって職場などへのアフターケアー訪問が行われるようになりました。また、当時のPTA活動としては、卒業後問題委員会があったり、バザーを開いたり、卒業者名簿を作ったりしていました。

 しかし、こうした学校の努力にも限界があり、学校を卒業しても就労が困難な者、職場に定着できない者、施設などの不足により在宅せざるをえない者などがおりました。保護者の間には子供の将来に対する不安を抱いている者が少なからずおりましたが、わが子の卒業後のことを話し合ったりする場は、ごく親しい親どうしの間で持たれるにすぎませんでした。

 昭和49年度に高等部が設置され、3年後には初めての卒業生が送り出されることになりましたが、卒業しても就労が困難な子供たちも多くいました。そのようなことから、昭和52年10月、初代の宮本校長が、高等部の在学生の家庭に、父親懇談会の開設を呼びかけました。ところが、校長先生の意に反して母親の代理出席が多かったため、再度、父親の出席を求められ、ようやく父親懇談会が開催されました。この場で、校長先生から次のようなお話がありました。

 「これまでは母親が中心となり、バザーや映画会を開いて卒業後対策の資金作りをしてきた。また、作業所などの設置を県・市に陳情しているが実現の目処は立っていない。卒業しても就労が困難な子供たちが、在宅にならずに毎日通ってきて仲間と一緒に過ごせる場を、父親たちの力で確保してほしい。子供の卒業後のことを母親まかせにせずに、父親が団結してほしい。自分の子供が幸い就職できたとしても、その子の仲間に就職できない子がいたら、みんなでその一人の子のことを何とかしようと考えてほしい。」

 父親の間には、子供たちの将来に不安をいだく者も少なくありませんでしたので、その後数回にわたり、この父親懇談会が保護者宅で保護者7・8名、先生3・4名で夜遅くまで行われました。また、職場見学、施設見学も併せて行われました。

 しかし、高等部の父親だけでは、数も少なく力が弱いことがわかり、小学部・中学部の父親にも懇親会への参加を呼びかけ、その年の12月には、全校父親懇親会が開催されました。そこで、様々な意見が交換され、話し合われた結果、父親懇談会を発展させた組織とし、ある程度の資金を子供たちの将来に備えようということになりました。「みんなで力を合わせて、子供たちの卒業後の問題に取り組んでいこう。」ということで、意見がまとまり、会の設立に向けて準備委員8名が選出されました。

 準備委員会では、会則の案、役員の人選、会費などを検討し、年が明けた昭和53年1月に、「子供の将来を守る父親の会」の結成大会が、附属養護学校において開催され、この場で、会則などが承認され、幹事役員も選出されました。選出された幹事役員により、数回の幹事会を重ね、この年の6月に、第1回総会が開催されるに至りました。

 総会に先立ち、この年の4月から新たに就任された小出校長先生から、「これだけ立派な組織の父親のあることは、学校の誇りです。文字どおり子どもの将来を守ることのできる会に発展するよう努力してもらいたい」との激励の言葉をいただき、総会は在校生の父親に卒業生の父親も加わり、盛大に行われました。

(父の樹会創立20周年記念誌(平成10年1月18日発行)より)